四苦八苦
●四苦八苦
「人生が苦である」ということは、ブッダの人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿であり、その実態が四苦八苦と言われるものです。
四苦とは、生を受けた瞬間から、誰もが逃れることの出来ない、生・老・病・死の4つです。
母胎に宿ったときより始まる苦悩、病むことから生じる苦悩、老いに至ることから生じる苦悩、そして、死に至る苦悩等、自分の力の及ばない苦悩、これに、
愛し合うものが別れてゆかねばならない「愛別離苦」(あいべつりく)
憎む対象に出会わなければならない「怨憎会苦」(おんぞうえく)
求めても得られない、または得られないものを求めてしまう「求不得苦」(ぐふとくく)
最後に人間生存自身の苦を示す「五蘊盛苦」(ごうんじょうく)、または「五取蘊苦」(ごしゅうんく)
五蘊とは、色蘊(物質)、受蘊(感受作用)、想蘊(概念作用)、行蘊(心の働き)、識蘊(認識作用)、であり、これに執着することから生じる苦しみ
を加えて「八苦」と言います。
非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句「四苦八苦」はここから来ています。
●十二縁起
十二縁起 (十二因縁)
『阿含経』では、釈迦が悟った直後、自らの苦を解決する道が正しかったかどうか、この十二支によって確認したとあり、人間が「苦」を感ずる原因を順に分析したものであることを説いている。
古い経典では、釈迦の成道は、十二因縁の順観(anuloma)と逆観(paTiloma)によると説いているが、これは迷いの事実がどのようなものであるかを正しく知ることが、とりもなおさず悟りであり、この十二因縁が迷の事実を示している。
十二支縁起の要素 [編集]
無明(むみょう、avidyaa) - 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。
行(ぎょう、saMskaara) - 志向作用。
識(しき、vijJaana) - 識別作用
名色(みょうしき、nama-ruupa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。
六処(ろくしょ、SaD-aayatana) - 六つの感覚器官。
触(そく、sparSa) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。
受(じゅ、vedanaa) - 感受。
愛(あい、TRSnaa) - 渇愛。
取(しゅ、upaadaana) - 自分の求めるもののために馳求する位。
有(う、bhava) - 存在。
生(しょう、jaati) - 生まれること。
老死(ろうし、jaraa-maraNa) - 老いと死。
十二因縁の展開 [編集]
老死とは、老いて死んでゆく人間にとっての厳粛な事実であり、生もまた生まれることである。しかし、これは単なる生命現象としてではなく、老死によって無常苦が語られ、また生においても苦が語られている。そうでなければ、釈迦の成道に何らの関係もない。したがって、老や死は苦悩の具体的事実である。これは無常苦の中を行き続ける自己を見つめることで、喜と楽による幸福の儚(はかな)さを物語るものであり、人間生存自身の無常苦を意味する。この点で、生も単なる生命現象としてではなく、無常苦の起因、根本として求められたものとされる。
「老死がなぜあるか、それは生まれてきたから」では無常苦の解決にはならない。生も苦、老死も苦、人生そのものが苦と、ここに語られる。生老死がなぜ苦なのか、毎日の生活が生老死に苦を感ぜずにはおれないような生活だからである。その生活こそ生老死を苦とする根本であり、それを有という。生活の行為が生老死を苦と感じさせるのはなぜかというと、常に執着をもった生活をしているからである。とくに、自分自身と自分の所有へのとらわれが、その理由であり、取による有といわれる。その取こそ愛によるのである。
経典は、この愛について三を説いている。
有愛(bhava-taNhaa) - 存在欲。生きることを渇望する心。
非有愛(vibhava-taNhaa) - 非存在欲。有愛がはばまれる時に起こる、死を求める心。
欲愛(kaama-taNhaa) - 有愛・非有愛が外部にむかっておこること。自分の生を願い、また呪い、他人の生を願い、また呪うことである。
生命を願い、また呪う。このように、矛盾したものが同居している生命であるところに人間苦の根本がある。この生命の秘密を明らかにすることこそ、人生苦の克服の道とする。
これは単に生命の否定ではない。その生命の深淵を自覚しなければならない。それこそ受・触・六処・名色・識によって示される心の構造であり、その意識をまちがわせる無明とその行とである。すなわち、無明を克服し、すべてを一体と自覚せしめる智慧こそ、人生苦を克服する働きをもつという。
このように十二因縁は、迷と苦が無明を原因とし、渇愛を源として展開していることを明らかにする。したがって、無明を克服して智慧を得れば生老死の人生苦はない。すなわち、自我への執着をはなれ、無我の自覚に立ちかえることが、仏教の指針とされる。
無明の克服とは自我を拠り所とする我執の克服をいう。これは無我の自覚であり自己否定である。またこれはいっさいの否定であり、絶対無となる。したがって生活や生命の営みの否定とされる。そこには生活はありえない。しかし、釈迦のさとりは単なる自己否定ではなく、それが本当の生活であったはずである。すなわち、無我である自己を破り去ったところに、かえって無我のまま復活しうる道があった。それこそ真実の縁起の自覚であり、仏教が仏道として生きていく指針となるのは、無我のまま生活を決然と生きていくということである。)
ウィキぺディアから引用